豊根村誌から抜粋した豊根村歴史風土

平成元年10月1日に発行された豊根村誌(編集・発行:豊根村)に記載されている内容から、項目を抜粋してまとめました。元号は令和へと移り、編纂時期から30年を経過しておりますが、村史編纂時以降の内容はあまり踏まえていません。

また、旧富山村との合併前に編纂された史料になります。

そのあたりをお含み置き頂きつつ、原始時代から昭和に至る豊根村を読取下さい。

第1章 自然環境

  • 豊根村は、霧坂峠と樽下峠を結ぶ尾根で2つに分けられた水系によって区分される。
  • 昭和43年8月(806mm:1日最大252mm)と昭和44年8月(564mm:1日最大289mm)に集中豪雨。
  • 最高標高点は茶臼山(1,415m)で、最低標高点は佐久間ダム堰堤下ウナギダル沢(140m:郡内最低)。
  • 御池様御神体のポットホールは長径20メートル、短径8メートル深さ8.5メートルで形からしても日本一だった。
  • 基盤岩は領家変成岩および苦鉄質岩・花崗岩で、それを覆って各所に設楽層群の堆積岩や火山岩が分布。
  • 砦山は尹良(ゆきよし)親王が砦とされたところ。砦(親王)様とキサキ様の祠。11月13日に最も近い日曜日に日余沢集落によって祭礼が行われている。
  • ニゴイやハスは新豊根ダムが建設されてから、大入川に生息するようになった。

第2章 原始・古代・中世

  • 北設楽郡内では先縄文時代から細石器時代にかけての遺跡が発見されており、茶臼山が最大。昭和36年頃から発掘調査が行われた。茶臼山には7箇所の遺跡と推定される場所がある。
  •  縄文早期(BC7,500年)の土器は老平遺跡から尖底の部分が発見されている。中期(BC3,000年)では上黒川の塩瀬遺跡が代表的で、他に津川・宮嶋・老平・兎鹿嶋など。また、祭祀場と推定できる場所が坂宇場の宮嶋遺跡(後期)から発掘されている。
  •  縄文遺跡→津川遺跡、杉橋遺跡、塩瀬遺跡、中平遺跡、東宇連遺跡、登長口遺跡、平瀬遺跡、宮嶋遺跡、上地遺跡、猪古里遺跡、川合向遺跡、老平遺跡、兎鹿嶋遺跡、小造遺跡、宮ノ元下中遺跡、寺平遺跡、蕨平遺跡、小田遺跡、浅草上手遺跡、東牧遺跡、西牧遺跡、明金遺跡、粟世遺跡、間黒遺跡、山住遺跡、門原遺跡、大立下地遺跡、間袋遺跡、小谷下遺跡、田鹿小野遺跡、曽川遺跡。
  •  弥生遺跡→小造、兎鹿嶋、宮嶋、山住の各遺跡があり、弥生式土器が僅かながら出土。
  •  「倭名鈔」には903年に宝飯郡を分けて設楽を置いたと記されている。「荘園資料」によると、豊根村と富山村は足助荘と記されている。
  •  平坦な農耕地に恵まれない豊根村では、中世の古記録は全く無い。ただし、地形の良い場所では陶片が発見され、村落の開発の古い歴史を示している。津川、中平、宮嶋、向、曽川、小谷下などで須恵器、土師器などの破片が採集されている。この時代は川辺の大地とか東南向きの平地が選ばれているようであるが、遺物は少ない。
  •  豊根村内には、村落の郷主のものではないかと推定される宝蔵印塔、五輪塔があり、室町時代末か、近世初頭と思われる。弘法山付近の十数基については、型式に時代の変遷がない。
  •  豊根村の開発は川沿いの東南向きの地形が選ばれて居住が始まり、後入りの者、枝分かれの者が開発の輪を広げ、つぎつぎと村落が形成された。
    大入川近辺が早く、次いで坂宇場川、古真立川流域となり、上流付近は遅れているようである。御所平、中村あたりは遺物から見て開発は遅い。
  •  平地の多い他町村では、時代の変遷により村落の中心が移動してゆく傾向が見られるが、豊根村では地形上の制約からこの現象はなく、当初開発したままの姿が現在に受け継がれていることが多い。
  •  城、砦について、豊根村には2城(弘法山:パルとよね横・砦山:坂宇場日余沢)と5見張所(シバンタ山:金越西方・古砦山:坂宇場小学校の上・猪古里嶺:坂宇場猪古里・川宇連前山:新野峠と砦山の中間地点)があるとされている。

第3章 近世

  • 落ち武者の主流派は河内(富山地区)に定着し、ついで大谷、市原、坂部(天龍村)あたりに手を伸ばし、更に支流を遡って新野(阿南町)に至ったと言われている。
  •  下黒川の中久名・小造、上黒川の兎鹿嶋・老平などは、三州宇利城城主熊谷氏の末流がこの地にやってきて、村落を開いたという伝承に包まれている。また、古真立川沿いの大立(おおたて)は1385年頃、但馬国赤松氏の家臣村松氏が戦を嫌ってここに来往したといわれている。
  •  この地域では、「本郷」と複数の「枝郷」とからなる村々が地理的に交錯し、画地的な村切りになっている。一般的な意味での近世村の形はあまりみられなかった。そこには、複数の村に所属する家々が混在していた(入会、入り混じり村)。
  •  枝郷である曾川の熊野神社では、昭和40年代、新豊根ダムによって水没するまでは、田鹿、曾川、小谷下、間袋、小田によって花祭り(花太夫守屋家、鈴木家)が行われていた。佐久間ダム建設時に消えた分地、湯ノ島、松島、滝原もかつてはこの花祭りに参加していたが、大正年間に独立して分地で花祭りをするようになった。大立村も、明治年間に分かれて単独で花祭りをした。
  •  江戸時代に豊根村は、おおむね天領となり、赤坂(三河国宝飯郡)あるいは中泉(遠江国磐田郡)の代官の支配を受けていた。1678年の検地があった頃、豊根村域内にはすでに13ヶ村(大立村、間袋村、小谷下村、溝渕村、中久名村、小造村、兎鹿嶋村、老平村、大沢村、坂宇場村、川宇連村、樫谷下村、粟世村)があった。
  •  毎年3月になると代官所宛にそれぞれの村の住民を家別にかき上げ、キリシタンではないことを届け出た。家族人数は1~12人に及んでいるが、4~6人の層が厚い。家主の年齢は、30~50代に比較的集中している。還暦あたりが隠居になる境目。未婚のまま高齢に達した者が少なくない。
  •  坂場村は現在の豊根村の北西部一帯、茶臼山山麓一帯を占めており、他の村々が小規模な凹地の重なったモザイク状の領域を有するのに比較すると、広大な山地と山麓の谷間から成る特異な領域を有していた。
  •  木材取引は天然林が多く、取引の記録に残っている大径木には直径2メートル以上(7尺3寸)のものもあった@江戸時代。
  •  幕末には、天然生立木を板材に加工し、出荷する方法がとられるようになった。
  •  若者組に関する資料は極めて少ないが、1815年、上黒川「若者中」の「取究極帳」は、豊根村のかつての年齢集団の様子を伝えてくれる。上黒川の若者組を構成する母体は、兎鹿嶋村、老平村、大沢村3ヶ村の諸村落である。若者組の仕事は村祭りなどの運営。娯楽的な諸行事にも中心的な動きがあり、計画すると若者頭から中老へ、そして村役人へという手順を経て実行された。
  •  若者組の相談役を担っていたのが中老たちで、問題ができると中老たちが調停役を買って出た。15歳から25歳までの仲間生活を終えると、中老組に移る。
  • 1860年3月18日、老平熊谷家(現在の国指定重要文化財熊谷家)当主は、金比羅、大峯山、伊勢神宮への旅に出発し、道中記を残している。

第4章 地区誌

1. 三沢地区

  •  三沢地区は、山ひとつ越した長野県側の新野、売木、大河内とは昔から交流が深い。生活物資は新野方面まで買い出しに行き、また行商も新野から多く入った。縁組みも長野県側と結ぶ家が多い。
  •  【三沢小学校】明治28年、三沢小学校に高等科を設置し、当時は他に高等科がなかったため坂宇場、黒川、古真立、富山村から通学する者があった。昭和42年、現在の校舎を新築。現在は閉校。
  •  【三沢中学校】昭和22年、旧質屋倉庫の建物と小学校の教室を借りて三沢中学校が開校。昭和49年3月に閉校。
  •  【若者センター】昭和55年から57年にかけて、山村地域若者定住環境モデル事業として新井地内の水田、山野を整地し、若者センター、グラウンド、木工試作施設が完成。
  •  【三沢郵便局】昭和13年に三沢字粟世、小開土家の一室で郵便取扱所として発足。昭和15年、三沢郵便局となり局舎を新築。昭和46年に新築移転。
  •  【村営住宅】新井地内に、昭和54年に5戸、55年に5戸、計10戸の村営住宅が建てられた。
  •  【簡易水道】昭和57、58年の二期に分けて工事が行われた。水源は間黒川の上流から取り入れ、間黒、粟世全域に給水。
  •  【送電線】信濃幹線(東栄町から長野県塩尻)は、中部電力が昭和52年に送電用大型鉄塔を建設し、昭和53年から送電を開始した。
  •  【三沢農業協同組合】昭和23年に発足し、昭和35年に豊根農協と合併し三沢支所となったが、昭和47年に支所も廃止された。
  •  【広域基幹林道豊富線】昭和49年に着工。
  •  【霧坂グリーンライン】宝地峠から国道151号に至る6.3kmの区間が、治山工事の作業道として昭和46年に開通した。林道を経て村道に。
  •  【バス運行】当地区へ乗り合いバスが入ったのは昭和39年9月。豊鉄バスが坂宇場、宮嶋経由で粟世まで入った。昭和45年頃坂宇場字宮嶋経由の乗り入れが中止、下黒川石堂経由で薪の愚痴まで入り、昭和49年に三沢字牧ノ嶋まで延長されたが、昭和60年に廃止され、村営バスが三沢の各集落まで運行。
  •  【社寺】
    「神明神社」粟世字宮下の山腹にある。花祭りは昭和35年頃まで1月12日に行われていたが、1月3日に変更し、現在休止中。
    「山住神社」間黒字溝畑地内にある。花祭りは昭和40年までは1月16日であったが1月6日となり、昭和52年から1月4日に変わって、現在休止中。
    「稲荷神社」牧ノ嶋字森下の山腹にある。4月1日には御神輿渡御、お練りが行われる。
    「熊野神社」新井の中央山腹にある。
    「清水神社」山内門原にあり、土地の人は竜王様と呼んでいる。1月3日に花祭りを行っていた。
    「竜泉寺」明金地内の山腹にあった。昭和16年12月28日に消失。もとは山内松葉地内にあり、樫谷下に移り、明金に移ったという。寺屋敷跡の山中には和尚の石碑とその他の石仏がある。

2. 坂宇場地区

  •  坂宇場地区は、川宇連村と坂場村が明治8年に合併して坂宇場村となり、明治17年に上黒川村、坂宇場村連合戸長役場が西宇連に置かれた。坂宇場には区有林が多くあり、そのほとんどが原生林に近い状態であったが、明治38年頃から大正12年頃にかけ、つねに20戸から30戸の越前衆がこの一帯で炭焼きをしたため伐りつくされた。昭和28年から財産区が設置された。
  •  【学校】小学校は明治7年に下津具学校支校として字向の普門寺に開校。明治12年に坂宇場学校と校名が変わり、独立した。明治22年に坂宇場字二継橋の現在地に校舎を建てた。明治35年に高等科が併置された。昭和33年に現校舎を新築。現在は閉校。中学校は昭和22年4月、公会堂を仮校舎として開校され、昭和23年に二継橋に校舎が建設された。昭和49年3月、中学校統合により閉校。
  •  【愛知県土木工区事務所豊根派出所】昭和9年坂宇場字宮嶋に置かれた。昭和51年に新城土木事務所設楽出張所に吸収され廃止となった。
  •  【愛知県設楽警察署坂宇場巡査駐在所】昭和21年、坂宇場字宮嶋に巡査駐在所が置かれ、三沢、坂宇場方面の治安維持に当たっている。昭和51年に現在地に駐在所が新築された。
  •  【花の木総合公園】茶臼山山麓にあった山岳種畜育成場付近に、昭和48年に民俗資料館が、昭和52年にビジターセンターができた。昭和59年には農村広場とテニスコート4面が作られた。
  •  【川宇連公民館、生活改善センター】川宇連公民館は昭和33年に社会教育施設として字下中村に建てられ、地域行事や集会に利用。
  •  【老人憩いの家・坂宇場地域センター】坂宇場字宮嶋の土木工区事務所豊根派出所跡地に、昭和51年に老人憩いの家が、昭和52年に地域センター、とよね喫茶がつくられた。現在は道の駅豊根グリーンポート宮嶋。
  •  【坂宇場郵便局】昭和14年、坂宇場字宮嶋に坂宇場郵便取扱所が設置され、昭和15年に坂宇場郵便局となった。昭和63年3月を以て廃局となり、簡易郵便局となった。
  • 【坂宇場簡易水道】昭和48年に猪古里川を水源として給水開始。常磐沢、横平沢を水源として平成元年から給水開始。
  • 【電灯】昭和14年に東宝電力株式会社により坂場全域に点灯。川宇連地区は、大正13年の送電延長についての五項目の要求が受け入れられず、有限責任川宇連電気利用組合を設け、タービン水車による発電を昭和2年に開始し、全世帯に点灯した。昭和26年から発電事業を停止し、中部電力から電気の供給を受けていたが、昭和40年、農村電気導入事業の助成を受け、中部電力にその設備等が移管された。
  •  【バス】大正14年に東三乗合自動車株式会社により小型幌型バスの運行が始められ、昭和18年に豊橋鉄道株式会社に合併され継続運行。昭和60年、道路線廃止により村営バスの運行が始められた。
  •  【村営住宅】若者定住対策として坂宇場字日余沢に昭和52年から3カ年かけて15戸を建設、昭和48年、49年の2カ年で中野へ15戸を建設。
  •  【社寺】
    「諏訪神社」川宇連地区の氏神。1759年9月に真宗諏訪大明神を迎えて字横平に祀られた。1804年の大洪水により流失。翌年11月に新築。明治25年に社殿の改築。昭和28年に御所平の尹良神社に合祀された。
    「尹良神社」創建の年は明らかではないが、後醍醐天皇の御孫尹良親王を祀ってきた。花の木の根元の小祠に祀られていたのを、1868年、今の場所に社を建て尹良神社として祀った。大正5年、郡内各地から寄附金を集めて社殿を改築した。昭和28年12月に字横平にあった諏訪神社を合祀して、川宇連神社と社名を改めた。大祭は5月3日に行われ、神輿渡御、おねり、投げ餅が行われる。
    「八幡神社」坂宇場字宮嶋にあり、坂場の氏神として1669年に造営。明治9年に村社となった。明治37年、火災に遭い全焼したが、翌年に復旧造営された。近世から花祭りが行われてきたが、火災により面、衣装、道具等が消失したため一時期中断したこともある。花祭りは1月3日だったが、現在は11月の第4土曜日に開催。花祭りの時に、地域内のみるめ様、天狗様、高根様が祭られる。
    「普門寺」曹洞宗桂昌院の末寺として字向に1690年に創建された。明治6年に無住のため廃却され、仏像、仏具は桂昌院に引き継がれた。

3. 上黒川地区

  •  上黒川地区は、江戸時代に老平村、兎鹿嶋村、大沢村の3ヶ村に分かれ、明治の初めには老平村18戸、兎鹿嶋村23戸、大沢村23戸となっており、各村は入会(いりあい)となっていた。明治11年にこの3ヶ村が一緒になって上黒川村となり、明治17年8月、上黒川村と坂宇場村との連合戸長役場ができ、字西宇連に置かれた。
  •  【学校】明治6年7月、中久名村仁親寺に中久名学校として開校され、坂宇場を除く全域が通学区となっていた。明治9年2月に黒川学校と校名が変更された。明治14年上黒川校舎が桂昌院に開かれ、明治16年10月、西金越しにあった同院別院を買い取り、修理を加えて上黒川校舎とした。明治37年4月に上・下黒川公社を統合することになり、字森登に明治40年8月建築に取りかかり、翌41年11月3日に使用を始めた。昭和42年に字中村に校舎が建設され、浅草分校区を合併し、豊根小学校と校名変更された。昭和45年4月から古真立小学校区を合併した。平成16年から字兎鹿嶋に豊根小学校。中学校については、昭和22年4月、豊根中学校を開校し、黒川小学校校舎の一部を使用した。昭和24年に字兎鹿嶋に校舎を新築した。昭和49年4月、統合による新豊根中学校を開校し、昭和51年に寄宿舎が建設された。
  •  【保育園】昭和39年から、へき地保育所として熊野神社の施設を利用して開設されたが、村では昭和40年に上黒川字塩瀬地内に第一保育園を建設し、昭和41年4月から開園した。昭和61年度に第1第2統合保育園を字兎鹿嶋地内に建設し、昭和62年4月に杉の子保育園として開園した。
  •  【大入頭首口】豊川流域の総合的開発を図るため、愛知用水公団が水源を大入川に求め、昭和41年5月に着工。昭和43年3月に竣工。
  •  【上水道施設】黒川簡易水道はその水源を坂宇場川に求め、昭和50年から金越、老平および石堂方面に給水開始。宇連簡易水道は水源を間当側都市、昭和52年5月から給水開始。
  •  【小径木処理施設:木サイクルセンター】第二次林業構造改善事業の助成を得て、字中平に昭和54年度に建設、55年4月から森林組合管理。
  •  【電灯】大正12年に東邦電力により、老平、川合、金越に、大正14年10月に同社により大沢、津川、塩中、宇連に点灯した。
  •  【バス】大正14年から東三乗合自動車株式会社により国道沿いの地域に、昭和8年には川合、老平方面に小型幌型バスの運行が始められ、昭和18年豊橋鉄道に合併され継続運行されたが、昭和60年に廃止され、村営バスの運行が始められた。
  •  【社寺】
    「熊野神社」創建は不明。近世には、老平村、兎鹿嶋村、大沢村の氏神。1822年、火災により社殿を焼失したが、復旧造営。明治6年4月、砥鹿社を合祀、明治9年3月に村社となった。明治43年5月に二宮で会った諏訪神社を合祀、昭和12年11月には社殿を改築。古文書によると徳川初期には既に花祭りが行われていた。実施時期は、霜月に老平・兎鹿嶋・大沢の3村の民家において交互に行われていたといわれる。明治の初め、神仏分離令の影響により花祭りが熊野神社の神事として行われるようになった。太陽暦の実施に伴い花祭りが1月5日に行われるようになり、また昭和62年から1月3日に変更された。
    「八幡神社」創建不明。村社に昇格したことで、熊野神社から大沢組の氏子が離れて八幡神社へ。明治40年に社殿を造営。
    「桂昌院」1570年、曹洞宗長養院の末寺として字老平に創設された。1764年に火災に遭った。1792年に本堂再建。
    「忠魂碑」昭和3年に行われた御大典の記念事業として建立が村から提唱。村予算に合わせて、豊根村在郷軍人会が中心となり、村内全地区から建設寄附金を集め、昭和4年に上黒川字老平の弘法山に建立された。
    「弘法様」大正10年頃、四国88箇所の弘法大師信仰が高まり、有志によって字老平にある丸山に浄財を集めて建立が進められた。大正11年11月に北設楽郡産馬畜産組合主催の第1回馬匹共進会が同山を会場とするため一部が整地されたのを利用し、地元青年団の協力を得て、現在のように整地され建立された。大正12年3月21日から3日間にわたり竣工開眼式が行われた。4月21日(後はその前後の日曜日)には毎年大祭が行われ、投げ餅、おねり、獅子舞等の他、接待も行われてきたが現在は無い。

4. 下黒川地区

  •  下黒川地区は、小造村、中久名村、溝渕村が明治11年12月28日に合併し下黒川村となり、明治17年8月1日北設楽郡第13組三沢村・下黒川村連合戸長役場時代を経て明治22年10月1日豊根村が成立。
  •  【学校】黒川学校は明治6年7月、第9中学区第21番小学校として旧中久名村仁親寺の一部を借り、中久名学校として開校された。その他については、上黒川地区の【学校】を参照。
  •  【豊根村役場】明治22年10月1日、豊根村成立により役場位置を下黒川区内浅草に決定、民家の一部を借り受けて仮庁舎を置き発足した。大正7年3月、下黒川宮ノ元に新築移転することに決定し、4月14日に新庁舎に移った。昭和12年下黒川ケゴヤに移築され、昭和53年11月3日に下黒川蕨平2番地に新築移転され現在に至る。
  •  【郵便局】明治9年4月1日、下黒川字下中に中久名郵便取扱所として設置され、現在の豊根村全域の郵便集配業務の取扱いが始まった。明治23年4月1日中久名郵便局、明治27年10月黒川郵便局、明治42年6月1日豊根郵便局と改称された。
  •  【巡査駐在所】明治26年下黒川ケゴヤに設楽警察署下黒川巡査駐在所が設けられ、昭和60年下黒川蕨平へ新築移転し、現在に至る。
  •  【農協】昭和25年頃タービン水車による木工所が建設され、間も泣く製材所となり、製材ならびに床板フローリング加工の作業をしていたが、昭和30年頃廃業。同地に農協ガソリンスタンド、農協茶工場がある。
  •  【社寺】
    「八幡神社(旧溝渕村)」「津島神社(旧中久名村)」「若宮権現神社(小造村)」は、3ヶ村が一緒になって祭礼を行ってきたが、明治41年に合併し、津島神社となる。八幡社跡地に花祭り舞堂が建てられている。花祭りは1月2日から3日。
    「曹洞宗仁親寺」が1572年創建。下黒川ケゴヤ。

5. 古真立地区(現下黒川地区)

  •  古真立地区は近世小谷下村、間袋村、大立て村が明治9年1月24日合併し、各村の1文字ずつを取り入れ「古真立村」と決められたという。明治22年10月1日豊根村成立により大字となる。
  •  【学校】明治6年9月、小谷下伊勢神宮遥拝所跡地に民家を買い入れて中久名学校小谷下支校として開校。明治9年12月12日古真立学校と校名変更。明治40年4月4日、字湯ノ嶋に古真立小学校分地分校が設置されたが、昭和30年4月1日、同地域水没のため閉校。昭和45年、古真立小学校も新豊根ダム建設により過疎のため豊根小学校に合併されて閉校。
  •  【神社】
    「熊野神社」、「尾山神社」は両者とも曾川の地にあった。明治42年、両神社を合併し熊野神社となる。新豊根ダム建設に伴い移転を余儀なくされ、昭和46年2月1日補償契約が成立、電源開発株式会社が直営で田鹿に社等を新築し、同年9月30日に神社側に引き渡された。この宮に古くから保存されている狛犬(ネコ)は豊根村文化財に指定されている。花祭りは過疎のため休止。
    「後山神社」は1763年頃から大立村単独で祭礼を行ってきた。花祭りは明治中頃から行ってきたが現在休止。
    「御池神社」の崇拝者は遠くは神戸、大阪から、また豊橋方面から竜神会等団体でバスを連ねて参拝に。
    「薬師神社」には近世以来、いろいろな伝承が残っている。この薬師如来を栃餅薬師とも言い、栃の実から目薬を作り、あるいは困窮の人たちが栃のお供え餅を借り、翌年の祭礼の日に倍にして返す習俗もあった。廃仏毀釈の中で薬師堂は神社に改めた。昭和46年2月1日、新豊根ダム建設により移転を余儀なくされ、8月27日に遷宮祭が行われた。
  •  昭和30年佐久間ダム建設にともない、津島神社(分地組)、諏訪神社(滝原組)、熊野神社(松嶋)の3社は村人たちといっしょに移転し、豊橋市西幸町御幸神社に合祀された。
  •  【鮎】大入川には昔から天然鮎が遡上してきたが、大正7年、田鹿堰堤が建設されて以来遡上しなくなり、昭和2年県水産試験場が試験的に琵琶湖鮎稚魚を放流し、それ以来毎年続けている。昭和45年の新豊根ダムにより、37世帯中村内移住が1世帯となった曾川組は36組が離村して消滅。
  •  【消滅した「組」】
    「曾川組」小田川河口付近に水力式製材所が建設され、木材を製材し、馬車で石堂まで運び豊橋方面に出荷していた。御池神社、薬師神社。ダムで離村。
    「田鹿組」大正7年、湯ノ嶋発電所建設にともない、田鹿堰堤見張所、田鹿製材所、大阪第1商店設楽出張所等、人口も次第に増加し発展していたが、昭和45年の新豊根ダムにより、水没。
    「分地組」昭和19年頃から、愛知県営軍需製炭事務所、名古屋市交通局湯ノ嶋製炭所および各バス会社がこのちに大勢の炭焼き職人を入山させ、木炭車燃料確保のため製炭したと言われている。昭和30年佐久間ダム建設に伴い、湯ノ嶋、滝原、松嶋が水没。
    「湯ノ嶋組」明治28年頃船会社が天竜川上流まで営業を始めたため、湯ノ嶋がその基地となり、船宿、船問屋などをして次第に人家が増えた。明治40年には古真立小学校分地分教場が設置された。大正7年久根鉱山湯ノ嶋発電所が設置され、後に東邦電力に買収され、大正12年8月、古真立下黒川に送電線が完成し点灯された。新豊根ダム建設に伴い、田鹿堰堤取水口も閉鎖、湯ノ嶋発電所は廃止。
    「松嶋組」標高280メートル、北設楽郡で一番低いところと言われていた。木材を筏に組み、静岡県佐久間町中部まで天竜川を流した。電気が通じたのは遅く、昭和24年頃。

    第5章 村政

      1. 明治・大正・昭和(戦前)の村政

      •  豊根村は、明治維新を迎えて静岡藩に所属することになり、三河裁判所がこれを管轄した。慶応4年6月9日、三河裁判所が廃止され、その事務を三河県赤坂役所が引き継いだ。明治2年9月5日、三河県が廃止され、同県の支配地は静岡藩が受け継いだ。9月12日に伊那県支配が決定され、10ヶ村は伊那県支配となり、大沢、坂場、川宇連の3村は重原藩の支配となった。
      •  明治4年7月14日廃藩置県が行われ、明治5年11月15日、三河国内の従来の11県を廃し、三河の全国と尾張国知多郡を合併して額田県に。県庁を岡崎に置いた。明治5年3月、豊根村は額田県設楽郡第8大区、3小区の管轄区域になり、11月27日に額田県は愛知県と合併し、愛知県設楽郡の管轄区域となった。
      •  明治9年8月21日に設楽郡は会所を西路村(田口)に置いた。
      •  明治8年10月、坂場、川宇連村が合併し坂宇場村ができた。明治9年1月24日に小谷下、間袋、大立が合併して古真立村ができた。明治11年12月28日に兎鹿嶋、老平、大沢村が合併して上黒川村になり、小造、中久名、溝渕村が下黒川村になり、粟世、樫谷下が三沢村になった。
      •  明治11年、従来の区制が廃止され、設楽郡は南設楽郡と北設楽郡に分けられた。
      •  明治21年4月17日、市政及び町村制が公布され、この法律の施行直前に大規模な町村合併が行われ、町村の数はこのとき五分の一に減らされて地方自治機関に組み入れられた。このとき、5つの村が合併して豊根村が誕生した。当時、豊根村役場は三沢浅草の民家に、村長・助役・収入役・書記3名・使丁1名の職員で構成された。
      •  明治22年10月25日に開村以来初めての村会議員選挙。ところが、当選者のうち5名が辞退したので11月19日に補欠選挙が行われた。村長は村会議員の選挙で選ばれ、はじめの頃は村会の議長を兼務していた。
      •  明治22年11月21日、初代村長が選ばれた。同日、助役・収入役・書記3名も村会議員の投票で選ばれた。
      •  明治30年頃の豊根村の道路網は、県道の別所街道と19本の里道で形成されていた。明治31年2月に里道の維持管理がルール化され、改修工事費や出費を要するときは村費、道路清掃や落ちた橋の架け替えは地域負担となった。
      •  昭和9年7月に愛知県は県道の維持管理と村の土木事業の指導援助のため、坂宇場字宮嶋に新城土木工区事務所豊根派出所を設置した。
      •  大正15年以降は上黒川字砥久保に伝染病隔離病舎ができ、患者と家族を全快するまで収容した。結核患者も多かった。伝染病予防のため、毎年春秋の2回、住宅内外の大掃除が法律で義務づけられていた。大掃除が終わると、役場の担当職員と警察官が立会で検査し、合格すると検査証を渡した。
      •  明治14年8月、古真立村に私設消防組が置かれたのが消防の最初。明治24年までに11組が組織され、火災予防、消火および人命救助に当たった。18歳から40歳の男子。活動費用は組内有志による支弁。
      •  大正10年7月、公設消防組第1部(下黒川)、第2部(上黒川)が組織された。どちらも定員50名(のちに40名)。18歳から40歳の男子
      •  明治40年度から大正14年度までの、村の主な歳出項目では、教育費は大変大きな割合を占め、次いで土木費となった。

      2. 太平洋戦争以降の村政

      •  豊根村での戦死者は185人である。
      •  昭和22年4月、戦後最初の統一地方選挙が行われ、村長及び村議会議員の選挙は昭和22年4月30日に行われた。開票の結果、公選初の村長と、16名の議員が選ばれ、翌年5月1日に就任した。昭和42年5月から定員12名に、昭和62年5月から10名に減員となった。
      •  昭和20年は農作物の凶作の年でもあり、終戦によって帰郷する復員兵の受け入れもあり、豊橋市天白原、岩西、高師原、二川町の旧軍用御料地を集団開拓し、農地に転用するための入植者を村長が募集したところ、昭和21年1月20日には138世帯を数えた。唐鍬一丁で掘り起こす重労働でもあり、途中で力尽きて離農する者(37世帯)も出たが、新たに入植希望する者も多く、佐久間ダムや新豊根発電所の建設により、やむを得ず離村する家族にはこの地に移住した者が少なくない。ふるさと豊根会が組織され、人的交流が続いている。入植者が移した御幸神社には花祭りが伝えられている。
      •  昭和28年5月、通称別所街道と呼ばれた県道豊川線は、2級国道飯田豊橋線に昇格し、やがて級別の廃止により国道151号線と呼ばれるようになった。昭和29年、県道阿南東栄線に御園トンネル延長140メートルが開通。昭和33年、太和金隧道延長346.5メートルが開通。昭和54年に次ぐ大嵐停車場線に霧石トンネル延長132メートルが開通。平成元年、県道古真立津具線に黒川トンネル延長207メートルが開通。平成29年に新太和金トンネル延長685メートルが開通。
      •  大入川林道は豊根村田鹿を起点とし、大入渓谷沿いに静岡県旧浦川町を結ぶ延長13キロメートルあまりの林道。奥地開発県営林道として設けられた。昭和17年豊根村側から着工し、昭和26年3月に9年の歳月をかけて竣工。工事は難航し、19名の犠牲者を出した。昭和34年12月に県道古真立佐久間線に編入された。昭和43年には沿線の景観が評価されて天竜奥三河国定公園第2種地に指定された。
      •  古真立川林道は古真立川沿いに設けられた延長12.4キロメートルの県営林道。昭和26年度に着工し、4年の歳月をかけて昭和30年度に開通。この林道により、山内、大立、間袋、田鹿、小谷下地域に自動車が通行可能となった。
      •  昭和28年4月、電源開発株式会社は米国から最新の土木機械と技術を導入し、天竜川を遮断して佐久間ダムを造るための大規模工事に着手した。昭和31年4月に3年の歳月をかけて完成。水力発電では当時最大。このダムの片側は豊根村の古真立字鰻樽地内の標高150メートル地点にそそり立つ。佐久間ダムから富山村へ通じる県道飯田富山佐久間線が昭和40年12月に開通。
      •  新豊根ダムは電源開発株式会社により大入川に設けられた。昭和43年に着工したが、同年8月と翌年8月に大水害が発生したため建設省は急遽このダムに洪水調節の機能を持たせることにした。結果、施工中の堰堤を4メートル嵩上げ。管理は建設省担当になった。
      •  昭和43年5月、愛知用水公団は東三河地方の水資源を確保するため、大入川から取水し豊川水源に分流することになり、上黒川字川合の下流部で大入川に頭首口を設けた。愛知県は東三河の全市町村と資金を出し合い、豊川水源基金を設立した。基金によって、山の造林等が行われている。
      •  昭和37年4月、川宇連の公民館と浅草分校跡地において、村では初めての季節保育所が開かれた。翌年は坂宇場八幡神社の境内で、その翌年度は上黒川熊野神社の境内でも開所した。昭和41年度から上黒川字塩瀬に豊根村第1保育園が開所(定員80名)。昭和43年度から4年間、三沢字山内に4年間僻地保育所を設けた。昭和47年にこの保育所を三沢小学校の隣に移し開所(定員30名)。昭和61年度に上黒川字兎鹿嶋に「杉の子保育園」を建設し、昭和62年4月に村内統合して開所した。
      •  昭和47年9月に豊根村で初めての総合計画を策定した。基本姿勢は「住民参加の村づくり」「多様化する行政需要の総合調整及び効率的な財政運営」。昭和45年を基準年次とし、10年間の基本計画。
      •  昭和48年に役場と全世帯の茶の間を結ぶ同報無線設備が開局。回覧板に代わって活用されるようになった。
      •  昭和52年には電話の無い家庭が解消し、昭和52年にはテレビの共同視聴施設が村内を8ブロックに分けて設けられた。
      •  昭和48年度、都市に流出を続ける若者後継者を呼び戻し、活力のある村を作ることを目指して「ふるさと運動」を盛り上げた。山村の暗いイメージを塗り替える各種の試みがなされ、道路整備、水道普及、公園や広場、喫茶店、レストラン、スキー場など若者の集合に便利な場所づくりなどがある。村立喫茶店は昭和51年に坂宇場字宮嶋の一角に完成し、Uターン第1号の若者夫婦が経営。
      •  昭和49年度に村民体育館、昭和51年にコミュニティーセンター、昭和52年に基幹集落センター、昭和53年度には民俗資料館、昭和55年度には山村広場と村民弓道場、昭和56年度には夜間照明の多目的広場、昭和60年度には花の木総合公園の広場とテニスコートを設け、中学校の運動場にも照明を付けて村民に開放した。
      •  新総合計画として昭和58年に改訂。昭和60年に区制を採用。民営バス撤退に伴う村営バスの運行。昭和61年に住民保健体制づくり、昭和62年に社会福祉協議会の法人化、ホームヘルパーによる在宅福祉の充実など。
      •  昭和52年11月3日、豊根村は豊明市と友好自治体宣言に調印。都市部との交流はこのほか、名城大学(昭和51年)、桜ヶ丘高校(昭和50年)、名古屋テレビ(昭和49年)などや、国際連合地域開発センター研修生の受け入れ(昭和57年以降)や、山村生活体験宿泊事業(昭和57年以降)などの事業へ広がった。
      •  昭和53年には愛知県長野県の県境域開発協議会を発足。
      • 【消防団】 昭和22年、村内の20歳から40歳までの男子で消防団が組織された。当初の定員は370人。三沢、黒川、坂宇場、古真立の4分団。昭和63年度当初に、区の区域に合わせた4分団に再編成。
      •  【バス】豊根村に定期乗合自動車が東栄町本郷方面から乗り入れられたのは、大正14年頃と推定される。昭和30年代後半から自家用自動車が増加し、バス乗客の減少が目に付くようになった。昭和45年頃から赤字路線対策をバス会社から迫られるように変わった。昭和49年度には赤字部分を村が負担。昭和60年4月1日に役場の中に事業部が新設され、村営バスの運行が始まった。
      •  【役場職員】役場職員数の推移をみると、現業職員を合わせて昭和38年は29人、昭和48年が42人、昭和58年が49人。
      •  【広報紙】豊根村報第1号が発行されたのは昭和32年12月1日。「広報とよね」に解消されたのは昭和35年発行の第9号から。
      •  昭和47年10月に村章、昭和52年6月に村の花、昭和53年6月に村の木が決まった。

      第6章 農業

      今後も、豊根村誌から抜粋した文章を追記掲載していきます。